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鍼灸の扉1「鍼灸の歴史」

鍼灸発祥と中国における鍼灸の歴史

鍼灸の世界へようこそ。今回から皆様を不思議で魅力的な鍼灸の世界にいざないます。

さあ、1枚目の扉を開けてみてください。

当院は東洋はり(経絡治療)という鍼灸のやり方で治療を行なっていますが、そもそも、鍼灸とはどのようなものなのでしょうか?

さて、漢方医学(かんぽういがく)とは伝統中国医学の影響を受けた日本の医学で、伝統的診断法によって、生薬による処方を行い、病を治療する方法、もしくは、その医学大系のことをいいますが、これによって処方された生薬による処方を漢方薬と称しています。

また、漢方には、漢方薬による治療のみでなく、鍼灸や按摩、食養生などが含まれます。漢方と称するのは江戸時代、ヨーロッパ医学を蘭方と指すことに対して、使われた医学を指す呼び方です。

鍼灸は漢方医学の一つではありますが、現在日本では、残念ながら医師以外の者が、薬を処方することは出来ないことになっていますので、鍼灸は独立した医療体系であると言ってよいでしょう。

鍼灸とは皮膚または筋膜などの体表部位に特定の刺激部位(古来経絡・経穴と呼ばれてきた)を選択し、鍼や灸を用いた刺激を与えることで、各種疾病に対し治療的な介入を行なう東洋医療技術であります。戦国から後漢(B.C.5世紀~A.D.3世紀)にかけての中国において成立した物理療法であり、近世まで東アジア各国で発展し、現在ではアジア各国は勿論、欧米でも広く活用されています。

鍼灸の歴史

中国では、古代~中古鍼灸の発生起源は詳しくは分かっていませんが、春秋末から戦国時代には、「灸」はすでに用いられていたようで、「孟子」に灸治療に対する最古の記載があります。

現存する医書として実際の鍼灸治療法が記載される最古のものとしては、馬王堆漢墓(前漢・B.C.168)出土の竹簡と帛書(はくしょ=絹に書かれたもの)に、「足臂十一脈灸経」「陰陽十一脈灸経甲本」「脈法」「陰陽脈死侯」「五十二病方」等と名付けられたものがありますが、これらは全て「灸」に基づいた治療法の書です。

施灸点としての「経穴」や「経絡」という概念も登場していますが、これら経絡・経穴に対する「鍼」の適用法が確立したのは、後漢(~A.D.3世紀)の時代とされています。

現在も活用される鍼灸の古典医書『黄帝内経(A.D.3世紀成立)』は、前述の出土医書群の直系とされていますが、記述される内容は、完全に「鍼」が主体の体系にシフトしています。

これは、前漢から後漢に至る2~3世紀の間に、本来「灸」による物理療法として生まれた治療技術体系が、「へん石」(へんせき=石のメスによる瀉血)療法等を包含し、より簡便な「鍼」による物理療法として発展したことを示すものと考えられています。

「灸」で見出された体表面の治療に役立つ部位(経絡・経穴)は、「鍼」による刺激にも対応する事が発見され、発展を見たわけであります。

その後「灸」療法が廃れたわけではなく、病態に対応した「灸」と「鍼」の使い分けがなされ、「鍼灸」として活用され、『黄帝内経』の『素問』異法方宜論篇には、華北平野の北方より「灸」が、東方より「へん石」が、南方より「九鍼=鍼」が、西方より「生薬方」が起こり、中央の「導引(気功=按摩・ストレッチ)」と合わさって、当時の医療技術を形成した伝説が記されています。

さらにこれら鍼灸技法は、陰陽五行思想と融合し、独特の治療体系を形成していきます。この時代の鍼灸を担った著明な医家としては、『難経』の著者扁鵲や、『鍼灸甲乙経』を編纂した皇甫謐などがいます。

中世宋代から元代は鍼灸を含め医学分野の充実が見られるが、金元医学の中心は主に湯液によるもので、元の滑寿は『難経本義』の中で「難経などの古い鍼灸書を捨てて、新しい湯液に走るのは薮医者である」と諭しています。

近代以降1822年、清王朝は宮廷医院内の鍼灸科の廃止を宣言するなど西洋医学の流入と共に伝統中国医学の衰退が始まります。中華民国時代、袁世凱は伝統中国医学を禁止しようとしましたが、強い反発に遭ことになります。

現代中国共産党の時代に中医を正規の医学として認可するまで中医廃止派と中医派の対立が続きます。やがて正規の医学として認可すると、逆に冷戦時代にはアメリカ合衆国やソ連を中心とする西洋文明に対抗し、東洋文明の価値を宣伝するべく鍼灸治療をメディアに紹介しました。

改革開放の波に乗って市場経済社会主義を標榜するようになってからは、中国国内での鍼灸への評価は多様化しています。

これらが鍼灸術のおおよその発祥から現在に至るまでの歴史です。次回は、日本における鍼灸の歴史をご紹介する予定です。